無念無想ということ
この概念も「序破急や間合い」と同じく、深堀されているところを見聞した覚えがない。
「無念無双」は昔日から耳慣れた言葉であり、武術家等が修行を通して追い求めてきた、深奥な境地でると認識してきたし、いまもそう思っている。
しかし、居合を修行者として、それを深遠なものとして眺めているだけでは不甲斐ない。
浅学非才な者が述べることがおこがましいことを承知の上で助言をいただきたい。
無念とは念がないこと、無想とは想わないこと、と言っただけでは何も始まらない。
それは何も考えずに動作すること、心も思考も介在させずに動作することではないだろうか。それらが介在すれば敵と我という思いが即座に生じ(いわゆる二元性)、迷いの元となる。
これ以上、言葉を重ねれば重ねるほど虚しくなり真実から離れてしまう。本当の無念無想とは言葉で表すことを不可能な境地なのであろう。
ではあるが、無念無想を何も考えない、そこに全く心も思考もなく意識しかないものと、あえて考えたい。
無念無想の境地を求めて、修行に励むのも道であろうが、先ず無念無想になり、その意識のもとで抜刀してみるのは本末転倒であろうか。
かつて、福井虎雄先生が、「自分の目玉の奥をよく見ておけ」と言われたことがあった。
それは、自分なりに網膜の後ろに意識を置けと解釈している。その付近には妙に気持ちが落ち着く場所もある。2025.2.23(吉日)会水
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