抜き付けの三様
抜き付けには、前向き、後ろ向き、上向きの三様がある。 前向きは、先ず柄頭が相手の中心へ向かい、切先は留まることなくひたすら前進し、間髪なく切り付ける。 後ろ向きは、鞘手を後ろに引くことに主眼を置き、鞘の内にある切先が鯉口を出たところから切り付ける。 上向きは、鯉口を出た切先は前方に向かわず、上方に向かった後切り付ける。 抜き付けは、切先が如何に早く相手に達するかが要諦である。2026.5.27会水
技の解釈について
技については、身勝手なものも含めて、様々な解釈が存在する訳であるが、伝統に基づいての解釈および解釈者の技量をみて取捨選択した方がいい。 どの道、解釈ははしょせん解釈であり、実戦の結果に影響しない。勝敗を分けるのは、時の運もあるが、技の熟達度であり、元々の技量に他ならない。 居合は元々生死を分かつ場で工夫研鑽のすえに編みだされた武術であり、伝承されて来た形は、それらに立脚して編成されたものと理解している。 勝手な現代的解釈は、決して許されない先人への冒涜である。 何れにせよ、どのような解釈も、研鑽に努めないかぎり、何の意味も持たない。2016.5.21会水
気勢気迫について
先日、気勢気迫は何処から現れ何処に向かうか、について私見を書いた。 その主旨は、自分の外に在る気迫を自分に意識に取り込み、それを敵に向かって発する云々であった。 気迫のない居合は死物であるから、それを欠くことの無きよう、居合人はすべからく自戒せねばならない。 気迫は己の中にこもったものでないにも関わらず、己の中から発せられ、敵を貫くものでなくてはならない、、、誠に捉えがたい難題である。 いわゆるゾーンに入った状態でもなし、丹田に宿り、また宿すものでもない。 稚拙な認識かも知れないが、居合に関しての気迫は、敵と第三者にしか感知しえないものではなかろうか。言い換えれば、それが自意識にあがった瞬間、敵の術中に落ちることとなる。 何れにせよ、居合伎を判定する際の重大なファクターであろう。2026.5.20会水
居合道生命は鞘の内にあり
「居合道生命は鞘の内にあり」 「鞘の内とは何ぞや」 「鞘の内とは、相手を圧する心持をもって、鞘離れの瞬時に相手を制すること、これ即ち居合道生命にて、鞘の内という」 (福井虎雄先生の言葉)注:筆者覚書より このフレーズは、大日本抜刀法の四方刀の指導時に福井虎雄先生がよく述べられていた言葉である。2026.5.6会水
報恩稽古
2022年に再加入するまでの、約15年間は全日居から離脱していたため、変遷や事情については全く存じ上げない。 他方、小生は昭和50年(1975年)9月23日に江坂道場入門後、諸先輩から河野百錬先生の技前について伺い、昭和51年に福井虎雄先生を招聘したのを皮切りに長らくご指導を頂いてきた。 一歳年上の兄弟子は、中学生時代から福井虎雄先生から居合を習ったと伺っており、また河野百錬先生から「真剣道五段」を賜ったことは、小生にとっても誇らしいことである。 したがって小生の技は、河野~福井~江坂~兄弟子日名子の流れを汲んでいると自負しており、それを稽古の基軸としている。先師の教えに恥じぬよう、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」正に稽古を心がけていく所存である。 兄弟子もかつて、先師から「たとえ一人になっても、稽古を貫く覚悟はあるか」との問いかけを座右の銘としていると聞き及んでいる。 小生も全日居へ再加入のお許しを頂いたことに対する感謝の念を忘れぬことなく、これからも先師の教えに習い、自分を律した稽古に精を出して参りたい。20
速さについて
居合に限らず、剣術では「先)についての教えがありますが、それは敵との関係性において、先手を取るということです。 真剣勝負は、一瞬の判断で生死を分けると言われますが、居合においては、不意の襲撃にリアルタイムに応じる術なので、理詰めに考える隙はありません。 また、心の置きかたも重要ですが。それによって敵を斬る方法は教えられていません。心の持ちようは古来伝承の「形」にヒントがあり、その中に心の持ちようも隠されているのではないかと近頃感じております。 居合は敵の不意打ちに応じる術ですから、機敏な動作が必要であることに異論はないと思います。即ち物理的なスピードを要するということです。 つまり、傍からも、敵からも見えるような動作であってはならないと思っております。 達人の技を漫然と見ると、見えたような気がするかも知れませんが、それは決められた手順を追って見ているからであり錯覚に過ぎません。実は達人の一挙手一投足は、如何様にしても自分には見ることが出来ませんでした。 目にも止まらぬ速さとは、動作が自然であるから意識に止まらな
足指の使い方
技の基礎となる足さばきは、迅速かつ効果的でなくてはならない。 そのために、裸足、足袋、履物を問わず、足が床や地面を捉えている必要がある。 足指を用いて床等を捉えるわけであるが、福井虎雄先生の教えがあるとおり、後足の踵を床から三寸(約9cm)浮かせることで、それが可能となる。また、踵を下げアキレス腱を伸ばすと足の運用が不自由になるとの口述もある。 河野百錬先生の姿にも、踵を浮かすことによって、足指で床を捉えていると思われるものが散見される。 居合は、本来形を演ずるものではなく、敵前における武技であることを忘れてはならない。 2026.4.5会水
「横一文字」と「打ち下ろし」(その二)
【横一文字】 以下は、昭和3年に穂岐山先生へ河野先生が書簡で質問して得た返答に基づいています。 1、付けの右拳は肩の高さとなる。 2、右拳の位置は左右の肩を結ぶ線上より、6,7寸位前方に出す。それより後ろになる と引き切り気味になるので、30度の広角にする。 3、剣先は拳の高さと同じ水平線が原則であるが、幾分下がるも可とするが、前方より 見た時、刀の上を見せず下側を見せるようにする。 福井虎雄先生も上記の教えを実行しているので、私も見習っています。 【打ち下ろし】 打ち下ろし寸前の振りかぶりは鍔が後頭部に少し隠れる位となります。 従って、左拳も前額部より少し後ろまで振りかぶる。これは、昔、福井虎雄先生が取っていた位置であり、打ち下ろしにおいても引き切りにならず押し切りとなり、切っ先が直線的に最短距離で、敵の顔面に向かうことが出来ます。 これは始めて私が手ほどきを受けた日名子師の振りかぶりのポジションでもあります。 2026.3.20会水
「横一文字」と「打ち下ろし」
武技である居合が、今やアート化しているように私の目には映ります。むしろ形骸化とも言えるのではないでしょうか。 戦国時代に編みだされた技が、今日、実戦の場がないとのことで、現代的な解釈で捉えたのでは元も子もありません。 穏やかで落ち着き払った技が評価されることは、少なくとも私の若い頃にはありませんでした。 このような観点をもって、以下を述べます。 【横一文字】 私も昔は、「鯉口を離れた瞬間に切っ先が上方に向かう」ことを叩き込まれました。 今では、その技法が広く普及し、常態化しておりますが、それでは実戦から遠ざかってしまいます。 私は独立以来、目指すべきお手本を変えました。 新たなお手本によると、「鯉口を離れた切っ先が上方に浮き上がることは、どの場面を切り取ってもあり得ず、鯉口から的(始めに当てる場所)まで、直線的に向かう」ということです。 切っ先が上方に浮き上がると、的(始めに当てる場所)までの距離か伸びる(遠くなる)ことで、物理的な時間がかかり、間合いとの距離も遠くなります。 【打ち下ろし】.
稽古の揺るぎないスタンス
私自身のスタンスは、その技が最上のものと前提したうえで、21代宗家福井虎雄一択です。 これは、江坂道場からの独立とともに決意したものです。 他の多くの教えに接ることにより混乱もおこりうるし、それに対処したり、他の教えを試したりする時間的余裕もキャパシティーも自分にはないからです。 詰まるところ情報過多は意識が分散してしまうため、一点集中しないと何も達成出来ないと信じるからでもあります。 時々、他の技前と比較することはありますが、それは他山の石としてのものであり、なるべく目標とするものに専念したいと常々考えております。 それには先ず福井宗家の外形、つまり見た目の形(かたち)と動作をとことん真似ること、そこには、間と間合いも含まれますが、丸写しするほどに稽古したいと考えております。 私の場合は、身体を柔軟に用いたり、体幹を鍛錬すること等々で、技前が仕上がって行くというものとは逆で、とにかく形ありきで、「その過程を通して、前述の柔軟性の他、必要な要素が自ずと備わるもの」というスタンスです。 私にとっては、柔軟性や体幹は二次的

