自己探求
- 山崎修明
- 2019年12月25日
- 読了時間: 1分
居合を稽古する目的は、正しい技の追求を通して、自己を探求することです。
健康やその他の目的は副次的なものです。
探求するべき自己は、余計な観念を取り除けば、既にいずれかに存在しているものなので、改めて探すものではありません。
その余計な観念の一つは身体と自己を同一視することです。
そうだとすると、身体の中にない自己はいったいどこにあるのか?いざ探そうとするとしても、それを特定の場所に見つけることは出来ません。
では、それを探すためにはどうすればよいのか?
自己探求の一助として、常に「技は誰が行っているのか?」と問うことにより、「技を行っているのは身体ではなく、本来の自己である」ということが分かり、その作業を続けることにより本来の自己に行き着くというより、本来の場所に戻れると賢者はいいます。
技を行う瞬間には心や思考は無く、それを古人は無念無想の境地と言われました。
正しい技は、自己本来の純粋意識である無心から現れます。会水
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