私が思う、居合の心持ち
- 山崎修明
- 2017年8月3日
- 読了時間: 2分
・現代における居合道は仮想敵を相手にしていますが、それは自己が想定するものですから、個性や修業の段階によって、その概念は変化するものです。
・二人で行う「太刀打之位」という居合道の形では、打太刀と仕太刀に分かれて稽古しますが、一人で仮想敵を相手に行う場合と同様に、あまり相手に左右されるのものではありません。相手(敵)とは彼我の関係にありながらも、相手との一体性を感じることさえあります。
・外部からの刺激にいちいち反応し、影響されて「今」の自分を見失わない。
これは、相手のかけ声に圧倒されたり、フェイントに惑わされたり、次の攻撃を想像したり、深読みして、主体性を失わないということです。
・日本刀と「一体」となる。
稽古のとき、腰に差し、手で触ることが出来る「刀」が確かにその場にあります。また、稽古場には確かに「自分の身体」もあります。その二つが「同時に、今ここに在る」と感じるようにすると、実体のある技になります。その際、断固として、その他のもの侵入を許さないことです。その時に余計なものがないほど技の濃度は高まります。
・自分自身の今の動作にいつも「気づいている」こと。
これは、無心の境地と相反するようですが、無心と無意識は違います。習熟すれば、考えなくても自然に身体が動くようになると言われますが、考えることと気づいていることは違います。無心でありながら意識的であるということです。
会水
最新記事
すべて表示私は自分の信ずる正統正流の技前を継承するための指導をしている。 自分が習い、憧れの師の技前に違わぬよう、それが忠実に伝わるよう自分なりに努めているつもりである。 ~の様に、~のような感じで、と言う観念的なことや、何かに例えてイメージ化するような説明は出来る限りしない...
この概念も「序破急や間合い」と同じく、深堀されているところを見聞した覚えがない。 「無念無双」は昔日から耳慣れた言葉であり、武術家等が修行を通して追い求めてきた、深奥な境地でると認識してきたし、いまもそう思っている。 ...
一、先ずは外形から入るべきである 体ならしや刀になじませるために素振りや足さばきから教える向きもあるようだが、何も分からない初心者にそれをすれば自分勝手なやり方になってしまいむしろ後々の弊害となる。初っ端から悪癖をつけさせるようなものである。 ...