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存在しているものと、していないもの

当道場は稽古時に、正統第20代河野百錬宗家による宗家訓を窓際に立てかけております。

そこには、「当流の居合を学ばんとするものは、古来より伝承せられ、以って今日に及ぶ当流の形に些かも私見を加うることなく、先師の残された形を豪末も改変することなく、正しく後人に伝うるの強き信念を持って錬磨せられんことを切望する」という一節があります。かつて私が指導を受けた江坂弘先生「江坂道場」でも、壁に毛筆の宗家訓が、掲げられていました。

これは、先人が実戦の中で、研鑽会得した技を大切に受け継いで行って欲しいという強い思いが込められている訓えだと、指導されてきました。技の伝承のためには、是非とも肝に銘じたい大切な訓えです。

私は、その言葉の深奥は、実戦から編み出された技には「実在」があり、存在感という概念を超えて、居合の本質的「存在」そのものについて言われているように私には聞こえます。それは生死の間の真実から出たものだからです。

半面、歴史と伝統への理解を欠いた自己解釈によって後付けされた不正直な技は、真実から出たものではないので、実は存在していないような気がします。存在しているのは真実だけなので、それ以外は幻ではないかと思えるからです。

そう感じる私自身もそれを肝に銘じた稽古に努めねばならないことは承知しております。

そして、先の「宗家訓」は、居合を学ぶ者への戒めを込めたものではないかと、個人的には考えております。

かつて私は、師匠から「無駄を省け、余計なものを削ぎ落とせ」と厳しく叱咤されましたが、その言葉を思い起こす度に、元々「存在」している真実のみを見よ、はじめから存在していないものには目をくれるな、本質を見抜けと近頃では聞こえるようになりました。

例えば穴を掘るときは、土を取り除けば、元々存在していた穴が現れるわけで、土が穴を隠していただけだとも言えます。あえて空間を作ろうとしなくても、それは元々存在していたということです。

唯一存在している真実のみに向き合えば、本質は既にそこにあるということです。ここでの空間は技の本質に例えています。

幻想(非存在)に満ちている世界ではなく、実在(存在)だけを見る意識を磨けば、きっと本物の技に出会えるはずです。会水

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