精密に武技を学ぶ
身体能力の高さや強靭な体は有利ですが、それは武道の本質とは分けて考えた方がよさそうです。
例えば現代の柔道の体重別制度は、体力で区分した面もあるように思えますが、古来の組打ちや柔術は体格の違いはあまり意識されていなかったと聞いております。
古来の武士は足腰の鍛錬は当然のことだったでしょうし、確かに室町以前や当時でも体力が有利な戦いもあったと思いますが、武術としての流派が打ち立てられるにしたがって見事な武技が現れ始めました。
我々が学ぶ居合道の開祖の林崎甚助公は一節によりますと、鹿島神道流の塚原卜伝の訓えを受けたとも伝えられていますが、若年で非力な時代に、親の仇を討つために、研鑽し編み出されたのが、居合道につながったとも言われます。
そこから察すると、体力を主眼とするような「人間技」ではなく、人間の自然な動作に反して、とても不自由なことですが、流派の掟に則って、強いて五体を精密に「武技化」することが武道修練の本質のように思います。
一旦「武技化」され「人間技」が取れた五体は、勝敗に固執しない限り、なかなか崩れないものです。
現代においては、生死を賭した実戦に直面することは極めて稀ではありますが、その心構えをもって居合に向き合うことが武道の本質を学ぶとことに連なります。
そして、同等の体力、身体能力が互角の場合には、武技の精密さが雌雄を決するとの先師の言葉を思い出します。
詰まるところ、武道の修練とは、自己の能力の範囲内で、自分の技量の最大化を図ることです。会水