top of page
検索

形(型)の性質について

  • 山崎修明
  • 2020年4月25日
  • 読了時間: 2分

歴史の過程で、各流派が技の本質を集約し体系化したものが形(型)である。

古来、真剣を用いて相対で剣技を試すことは、生死を賭すことになるため、通常は一人で鍛錬していたと言われる。木刀で対戦する場合も事情は大きくは変わらないであろう。

もし、居合道で、防具を用いて技を試したとしたら、斬(切)るというより、打つ技にならざるを得ず、伝承されてきた見事な技が崩れて、本質を失ってしまうことは明らかである。

また、勝負を競うことを一義とすることは、必然的に体力や運動能力に頼りがちになる可能性がある。

生まれ持った人間の身体特性の延長によっては、武技は成り立たず、人間の体全体を武技化しない限り、武技ではなく、人間技になってしまう。

居合では、試合というものがないので、個人の恣意や個性が入りにくく、技が崩れにくい。

その一方で、技に私感を加えたり、伝承された技を改変してしまうことは、技が崩れる云々以前の別次元の由々しき問題を生ぜしめる。

いずれにせよ、伝承という意識を欠いた武道は、その語義からも稽古とは言い難く、練習と言うほうが相応しい。

現在の勝敗偏重の潮流から、先ずは、形(型)から指導するくらいに意識を転換しなければ、ますます伝統武道の本質から離れてしまうことは必然である。会水

 
 
 

最新記事

すべて表示
居合の本義

泰然自若として急いてはいけないとか、言われるが、それらは心構えのことであり、内面の問題である。また、段位相応の技前と言われることもあるが、ある意味技前と段位を同列に考えるのは難しい面がある。   時として、堂々たる落ち着いた技前等として評価されることがあるが、それらは決して...

 
 
 
何を指導するべきか

私は自分の信ずる正統正流の技前を継承するための指導をしている。   自分が習い、憧れの師の技前に違わぬよう、それが忠実に伝わるよう自分なりに努めているつもりである。   ~の様に、~のような感じで、と言う観念的なことや、何かに例えてイメージ化するような説明は出来る限りしない...

 
 
 
無念無想ということ

この概念も「序破急や間合い」と同じく、深堀されているところを見聞した覚えがない。   「無念無双」は昔日から耳慣れた言葉であり、武術家等が修行を通して追い求めてきた、深奥な境地でると認識してきたし、いまもそう思っている。  ...

 
 
 

Comments


特集
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
最新のお知らせ
Archive
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page